わずか半年で旅立った真っ赤なパジェロJトップ
人生において、特別な思い出として心に刻まれる車があります。
私にとってそれは、社会人になって初めて自分のお金で購入した真っ赤なパジェロJトップでした。
短い期間でしたが、かけがえのない思い出と、予期せぬ別れの物語をお話しします。
四駆の中で目を奪われたのが三菱のパジェロJトップ
今から振り返ると、30年ほど前の話になります。
私が社会人2年目、20代前半の頃のことです。
最初の車は親からの援助もあって購入したものでしたが、「次は絶対に自分の力で買いたい」という強い思いがありました。
当時は、四輪駆動車、いわゆる「四駆」がとても流行っていました。
雑誌やテレビでも四駆特集が組まれ、街中でも見かける機会が増えていました。
そんな中で私も四駆に強く惹かれるようになりました。
力強さと冒険心をくすぐるデザイン、どんな道でも走破できる走行性能、そして何より「普通の車とは違う」という特別感。
若かった私の心を鷲掴みにしたのです。
様々な四駆の中でも、特に目を奪われたのが三菱のパジェロJトップでした。
コンパクトながらも力強いフォルム、取り外し可能なハードトップの開放感、オフロードでの走破性と街中での使いやすさを兼ね備えた魅力的な一台でした。
「いつか必ず手に入れたい」と思いながらも、新車価格を見ると当時の私の給料ではかなりハードルが高く、諦めかけていました。
そんな時、同じ職場で働いていた先輩から思いがけない話が舞い込んできたのです。
「知り合いの販売店で、状態の良い中古のパジェロJトップが入ってきたらしいよ。見に行ってみない?」
その言葉に飛びつくように、仕事帰りにその販売店へ向かいました。
そこで目にしたのは、まさに私の理想そのものの一台でした。
真っ赤なボディカラー、程度の良い内装、そして何より維持費の心配をしなくても良い走行距離。
試乗させてもらうと、想像以上の乗り心地と操作性の良さに、すぐに「この車だ!」という確信を持ちました。
販売価格も、決して安くはなかったものの、ローンを組めば何とかなる範囲。
数日悩んだ末、思い切って購入を決意しました。
契約書にサインをした瞬間の高揚感は今でも鮮明に覚えています。
自分の働いたお金で買った初めての車、しかも憧れの四駆。
夢が現実になった喜びで胸がいっぱいでした。
納車日、真っ赤なパジェロJトップが私の元にやってきた時の興奮は言葉では表現できません。
ディーラーから自宅までの道のりは、まるで初デートのような緊張と喜びが入り混じった特別な時間でした。
「四駆に乗るカッコいい女性」として過ごしていた日々
パジェロJトップを手に入れてからの日々は、本当に充実していました。
毎朝、駐車場で真っ赤なボディを見るたびに、所有する喜びを感じていました。
当時の私には、「四駆に乗るカッコいい女性」という自分なりの理想像がありました。
今思えば少し恥ずかしい話ですが、スーツ姿にスニーカーという、当時としては少し尖った組み合わせで運転することに密かな誇りを持っていたのです。
仕事でのパンプスは手提げバッグに入れて、運転中はスニーカーを履くというスタイルは、私なりの「カッコいい」の表現でした。
住んでいたのは地方の田舎町。
そんな場所で真っ赤なパジェロJトップはかなり目立つ存在でした。
ガソリンスタンドでは「素敵な車ですね」と声をかけられることが多く、時には「女性が一人で運転して大変じゃないですか?」という質問を受けることもありました。
そんな時は「全然大変じゃないですよ。むしろ運転しやすいんです」と少し自慢げに答えていたことを覚えています。
仕事に行く時も、友人と遊びに行く時も、パジェロに似合う格好を考えるのが日課になっていました。
夏はサングラスにTシャツとショートパンツ、冬はモコモコのセーターに厚手のジーンズなど、季節ごとに「四駆に似合う服装」を楽しんでいました。
週末には近郊へのドライブが定番になりました。
舗装された道路だけでなく、少し荒れた林道や砂浜などにも足を運び、四駆の性能を試してみることもありました。
友人を乗せて海や山に出かけることも多く、「今度のドライブはどこに行こうか」と計画を立てるのが何よりの楽しみでした。
車内にはお気に入りの音楽CD(当時はまだCDが主流でした)を常備し、大好きな曲を大音量で流しながらのドライブは至福のひとときでした。
パジェロJトップは私の趣味や自己表現の一部となり、生活に彩りを与えてくれていたのです。
購入から半年ほどの間に、近県の温泉地や有名な観光スポットなど、様々な場所に足を運びました。
真っ赤なパジェロでのドライブの思い出は、一つ一つが鮮やかで特別なものでした。
突然の別れと消えない記憶
しかし、そんな幸せな日々は突然終わりを告げることになりました。
愛車を手に入れてからわずか半年ほど経ったある平日の夕方のことでした。
仕事を終え、いつものように帰路についていました。
交差点で赤信号に従って停車し、青に変わるのを待っていた時です。
何の前触れもなく「ガリガリガリ」という、金属が強く擦れ合う恐ろしい音が体中に響き渡りました。
一瞬何が起きたのか理解できませんでした。
体が前に押され、車内のものが散乱する中、振り返ると後方にダンプカーが迫っていることに気づきました。
どうやら信号待ちをしていた私の車に、後続のダンプカーが突っ込んできたようでした。
「えっ!何事?」
パニックになりながらも車外に出ると、パジェロの後部が大きく変形し、赤いボディがむごたらしく歪んでいる姿が目に入りました。
幸い私自身に怪我はなく、すぐに警察と保険会社に連絡を入れました。
事故の原因は後続のダンプカーの運転手のハンドル操作ミスだったことが後に判明しました。
私には全く落ち度も不注意もない状況でした。
しかし、そんな事情に関わらず、愛車は修理不能なほどの損傷を負ってしまったのです。
レッカー車でパジェロを自宅まで運んでもらい、翌日専門家による詳しい検査が行われました。
「フレームが大きく歪んでおり、修理は可能ですが費用と時間がかかりすぎる。
実質的な全損と考えた方が良いでしょう」という厳しい判断が下されました。
保険で損害は補償されるとはいえ、お金では買えない価値がパジェロJトップにはありました。
初めて自分で選び、自分の稼いだお金で買った車。
様々な思い出が詰まった、かけがえのない存在でした。
それがわずか半年ほどで私の元を去ることになったのです。
最後にパジェロと対面した日、真っ赤なボディに手を当てながら「ありがとう、楽しい時間をくれて」と心の中でつぶやきました。
短い間でしたが、特別な思い出をたくさん作ってくれた愛車との別れは、予想以上に辛いものでした。
あれから30年近くが経ち、いくつもの車に乗り換えてきましたが、真っ赤なパジェロJトップとの日々は特別な記憶として今も心に残っています。
時々、街中でJトップの古いモデルを見かけると、つい目で追ってしまうのは、きっとそのためでしょう。
初めて自分の働いたお金で買った車は、このような苦い思い出として心に深く刻まれていますが、同時に若かった自分の情熱と冒険心を思い出させてくれる大切な記憶でもあります。
短い時間でしたが、パジェロJトップは確かに私の人生の一部だったのです。